24.魔のパーフェクト・ストーム
――ビューーー…!!
進行方向の視界の半分ほどを黒雲が覆うまでに接近すると、その中心に向かって吸い寄せられる大気の渦が、オレ達の大声の会話をも吹き飛ばす勢いになっていた。
黒雲の中心の辺りから、豪雨のカーテンとバチバチと火花のような稲光が突き出しているのが、舳先の義父のシルエットの向こうに見えていた。
「お義父さん、気をつけて!」
船尾から叫ぶオレの声は、果たして舳先に屁っぴり腰で立つ鳥打帽を紐で頭に括り付けた老人に届いているのだろうか?
吹き飛ばされそうになりながらも舳先にしがみつく義父は、「篆?ヌ邏ニ簔゛ニ?ぬくせるっつ!」と意味無し語を発して振り返り、手振りで舵取りの指示を飛ばす。
フチフチがその細い腰を必死の形相で抱きかかえ、やっとのことで筏につなぎ止めている。
乗組員の身体は命綱でそれぞれ筏に括り付けられてはいるが、荒海に落ちたらもう二度と自力で筏の上には戻れまい。
「わんわん!」ネルソンは、姿勢を低くして皆を励ますように筏のあちこちを這い回っている。
――ザザーー…!!
ちょっと前から勢いを増した横殴りの雨は、まるで落下の角度を変えた滝だ。
その滝は高波と手を組んで、容赦なくオレ達を筏から叩き落とそうと手ぐすねを引いているようだった。
さすがに恐怖を感じたのか、オレの足元のカゴに逃げ込んだネルソンが、不安げな顔でオレを見上げ、「クーン、クーン」と二回拗ねたような声を出した。
「よしよし!もうすぐ帰れるからな」オレはそれに応え、愛犬の喉を優しく揉み上げ励ます。
ネルソンは落ち着きを取り戻し、オレの手をペロペロと舐めて応じた。
「いいか、お前はここにいろ。おとなしくしているんだぞ」
オレは愛犬を入れたカゴに脱いだ上着をかけ、優しく諭した。
――ビュー、ズザザザー!
一陣の突風が帆を叩き、大きな音を立てた。
顔を上げ仲間の様子を伺うと、狭いデッキの中央で艫綱を握りしめるダンボが、黒雲への突入成功を確信したのか、振り返ってしっかりと頷いた。
確かに筏は蟻地獄に足を踏み入れた蟻のように、もう操船しなくても運命の黒雲に導かれているようだった。
このまま荒波にさえ耐え抜けば、あと2〜3分の後に黒雲の直中に吸い込まれることだろう。
皆は自然に筏の中央に集まり、その時が来るのをひたすら待った。
「もう少しだ!」
「振り落とされるんじゃないぞ!」
「やっと帰れる…」
大声でお互いに励まし合いながら、オレ達はその瞬間の来るのをじっと待ち構える。
そう言えば、あの日ヘリでこの闇に突っ込んでいった瞬間も、まな板の上の鯉のように、どうにでもなれと言う気持ちになったことを思い出す。
ドーパミンが大量に脳に放出されたせいか、苦しみも痛みも感じないまま、気が付けば視界が砂嵐のような闇に全て閉ざされ、スーッと気を失ったように何も感じなくなったんだっけ。
そうか…あれは、やっぱり本当に「死」だったのかもしれない。
そう感じた瞬間だった。
「あれを見ろ!」ダンボが立ち上がり腕を伸ばした。
右舷の方向から、今までで一番巨大な波が接近して来るのがオレの視界の隅に入る。
「あれが横腹にぶち当たったら一たまりもない…!」オレの目が、悪魔のような大波に釘付けになる。
高さは、軽くコンチキ2世号のマストを越えているだろう。
「高い、それにメチャ速い…」
誰の目にも、黒雲に突入する前に波が襲いかかってくるのは明らかだった。
「万事休すか…」
「せっかく、ここまで来たのに…!」
どうしようもない諦めの気持ちで脱力しそうなオレ達に、突如立ち上がった義父が叫んだ。「ぬもっせろんぞ!面舵いっぱい!」
なんだって?!向かってくるあの大波に向かい舵を取れと?「そうか!」
オレは、映画「パーフェクト・ストーム」のクライマックス・シーンを思い出していた。
無理と分かっていても、波をやり過ごすには真っ直ぐに立ち向かうしかない。――それは、操船訓練の中盤で義父が皆に教えたことでもあった。
「よっしゃ!」
どうせ死ぬなら。――潔い気持ちが魂の底から沸き上がり、オレ達三人は持ち場に戻り、再び巨大な困難に向けて一気に舵を取った。
――ゴゴオ…。
迫り来る最後の難関は、まだ筏の右斜め前方にあった。
「もも久慈!むぬうせろ!ニ簔ニ簔!」義父が叫ぶ。
「つまり、面舵だ!面舵いっぱい!」フチフチが翻訳する。
――ズザザザ!
「やばい!」オレは固く目を閉じて身構えた。
本当にギリギリのタイミングで巨大な波とやっとのことで正対したコンチキ2世号は、波の急な斜面をノロノロと登っていく。
「頑張れ!」
停れば、真っ逆さまに落下…。
エンジン無しの筏で、この坂を登れるわけがない。――全員そう気づいてはいるが、他に為す術もない。
「お願い!」ダンボが胸の前で手を合せ祈る。
「たのむ、もうちょっとだ!」ザンバラ髪を頭に貼り付けたフチフチが、いったん白目を剥いてから瞳を閉じた。
――ビュー!!
力尽きもんどり打って転覆する寸前に、神風のような一陣の突風が帆を一杯に膨らませると、コンチキ2世号は奇跡的に波頭の向こうに着地した。――ザッパーン!
「やった!やった!」オレは、ヘナヘナとデッキに腰を抜かしていた。
「まだ油断するな。今度は取舵一杯!」義父のハナモゲラ語をフチフチが通訳し、直ちに伝達する。
「了解!」迫ってきた黒雲に向け舵を取り直し、その中心を睨みつけるオレ。「本懐を遂げるまではぬかってたまるものか!」
現世への唯一の関門である黒雲は、もう目と鼻の先にあった。
あと30秒ほど後には、筏はあの中に入るはずだ。
突入を前に、全員の状態を確認すべく、オレは船尾を離れ、木の葉のように揺れる筏の上を順に見て回った。
落ち着き払った様子の義父は、デッキに腰を下ろし鳥打帽を更に深くかぶり直し、なぜか意味深な表情でオレに頷いた。
すぐそばで進行方向を注意深く修正するフチフチは、潮風に持っていかれそうな頭髪を手櫛で整えながらお茶目にガッツポーズをした。
マストの横に立つダンボは、まだ友綱を握り締め、最後まで気を抜かない姿勢で行く手を睨みつけていたが、オレがその肩に手を置くと人懐っこい顔で微笑んでみせた。
「よし!」
十数秒後の黒雲突入を前に、抜かりのないことを確認し終わると、オレは船尾の操舵席に戻り、さっきから落ち着きのなかったネルソンを安心させるため、カゴの中に手を差し入れた。
「!!」
息が止まるかと思った。
カゴの中には濡れた藁があるだけで、愛犬の姿はもうそこにはなかった。
「ネルソン!!」オレの声は明らかに上ずっていた。「大変だ!ネルソンがいない!きっと、あの高波を登る時に転げ落ちたんだ!」
オレの声に驚き、仲間たちが一斉に立ち上がった。「なんだって!?」
あの時のように、視界がもうすでに歪んで見える。
それは、溢れてくる涙のせいだけではなかった。
筏はもうすでに黒雲の端に差し掛かっていたのだ。
「ネルソン!」
冒険は続く…
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