19.老人と海
明日からいよいよ脱出筏「コンチキ2世号」を使った外洋での航海演習が始まるという晩、オレたちは訓練に義父を同行させるべきか否かの判断にまだ迷っていた。
ぶっつけ本番で乗船させるのは危険なので参加させるべきだと主張するダンボに対し、フチフチは危険な目に遭わせるのは決行当日だけで十分だとゆずらない。
両方とも義父を思っての意見なので、足手まといを呼び込んでしまったオレとしては、ありがたい気持ちと気兼ねが先立ち、なかなか結論を出せない。
当の義父は昼間畑作業に精を出し過ぎたせいか、隅でもうとっくに寝息を立てていた。
「どうしますか?」ダンボがオレの顔を覗き込む。「経験をつませたほうがいいですよね?」
「本番でも万爺はすることがないんだから、留守番しててもらいましょうよ」フチフチが腕を組んで口をへの字に曲げる。
オレは、当日になって義父がパニックってトラブる図を想像し、ついに結論を出した。「やっぱり、訓練に連れて行こう。いきなり航海ってのはさすがに無理だろう。オレが爺の面倒を見るから頼むよ」
「しょうがないなあ…」フチフチが渋々頷く。
それを聞いていたかのように、月明かりに浮かび上がる義父の寝顔が小さく微笑んだように見えた。
翌朝の渋谷島の空は、義父の夕べの笑顔のような好天だった。
風は微風、雲は十分に高く、しばらく天気が崩れる気配は無しという絶好の航海日和。
三人がかりで恵比寿広場から海岸に「コンチキ2世号」をエッチラオッチラひきずり出し、一汗掻いて浜辺で小休止していると、義父がネルソンとやってきた。
「縺倥c縺ュ笶?ははは」相変わらずの宇宙語を操る義父は、筏を指さして笑い出す。
「どうかした?」オレは義父の不思議な笑いの訳を、無理と知りつつ本人に問いただす。「この船がなにか?」
義父は何も言わずに、いや、何か文字化け語の独り言をブツブツつぶやきながら、筏の周囲をグルリ一回り歩き、その構造を品定めしているようだった。
「万爺ったら、船のあら探ししてるようだな。もしかして昔ヨット部だったとか?」その様子を眺めるダンボが、オレに問いただす。
「機械部品のエンジニアだったらしいけど、船に詳しいなんてカミさんから聞いたことない」
「ほう。爺が理系頭脳の持ち主だったことは間違いないわけか。もしかしたら…」フチフチが思わせぶりな一言を途中で飲み込んだ。
「なに?」
「いえ、なんでもないですが…」
一通りの検査が終わった義父は、私に近寄り言った。「縺ク縲・瑕局、縄有る?」
最後の“縄有る?”のところだけなぜか鮮明に聞き取ったオレは、差し入れの貴重なロープをダメ元で義父に手渡した。
義父は、ロープの一端を舳先(へさき)に見事な船結びで絡めると、マストの頂上を経由してもう一方をを艫(とも)にくくりつけた。
そのあまりも鮮やかな手際に、揃いも揃って文科系の我々三人が口を開けたままあっけにとられていると、義父はその様子を見て手を叩いて可笑しがっている。
「たしかにマストを支えるロープは、左右だけじゃなく前後にもあったほうがよかったな」オレは、義父が庭の竹垣を縄で見事に修理する様子を思い出しながら言った。
「それにしても、ただもんじゃねえな…」フチフチがそう言うと、ダンボが三回連続で首を縦に揺すった。
それからさらに二時間ほどかけ、義父は筏の気になるポイントに次々と改良を加えていった。
義父が出来栄えに満足して砂浜に腰を下ろすと、「コンチキ2世号」は「コンチキ2世号Sターボ」と呼びたくなるような変化を纏っていた。
部分を修正したのみなのだが、その姿は素人目にも元の何倍も頼り甲斐のあるものに写っていた。
「スゲエー…」生まれ変わったような船と義父の笑顔を呆れ顔で交互に見ながら、ダンボが言った。「職人の技だ。しかも一流の…」
「ああ…」義父の隠れた能力に驚いた私も、思わずつぶやいてしまう。「でもなんで…?」
「多次元宇宙では想像しうることは、何でもありえる。この理由(わけ)は考えないことにしましょう」フチフチが言った。
ネルソンも含めた全員でさっそく試験航海に出たあと、驚きは更に大きくなる。
なんとこの演習でスキッパーの役目を担ったのは、実質義父だったのだから。
それは、サンゴ礁の海から外海に出た辺りからだった。
風を捕まえられぬまま船を停滞させるわれわれ三人を見限ったかのように、それまでお客さん然と座ったままだった義父が自然とイニシアチブを取り始めるや「コンチキ2世号」はキビキビと海面を滑り始めたのだ。
ネルソンも嬉しそうに尻馬に乗り、舳先に義父と並び立ち、「ワン!」とわれわれを鼓舞するように勇ましく吠えた。
「爺、かっこいい…!」ダンボが憧れの視線を義父に向ける。
突然ヘミングウェイの世界に迷い込んだような気分になり、オレは頭を揺すって正気を確かめた。
その間にも「熙テフシ!熙テフシ!もすすす、せせそそ!」とハナモゲラ語でわれわれにキビキビとした態度で激を飛ばし前方を睨む義父の横顔には、いつの間にかベテラン船長の風格さえ滲んでいた。
「驚いた。足でまといなんてとんでもない…」フチフチは畏敬のこもった瞳で義父を眺め、ザンバラ髪を簾のようになびかせ天を仰いだ。「どうやら神は、われわれに脱出の切り札をお与え下さったようだ」
知らぬまにそんな肉親を持っていたことに誇らしい気分になったオレも、ネルソンと同じように義父にかしずきたい気持ちになっていた。
「ヒニ篆?ヌ邏ニ簔゛ニ。ンボホフシ、ネ!!」
この時義父はわれわれを鼓舞するかのようになにやら叫んだが、私は「人間は負けるように造られてはいないんだ!!」とメキシコ湾でサンチャゴ爺さんが叫んだ映画「老人と海」の名シーンにその姿を重ねていた。
冒険は続く…
私の友人の自然音録音家・ジョー奥田氏と写真家・高砂淳二氏とのコラボDVDより