25.突然の別れ
逆巻く荒波、叩きつける横殴りの風雨、迫り来る怪しい黒雲。
その直中でどんなに大声を出そうとも、それが波間でもがく愛犬に届くはずもない。
オレは、自分の身体に愛犬をくくりつけておかなかった自分の愚かさを心から呪った。
冷静に考えれば、木の葉の様に波に翻弄される筏の上で小柄なダックスが踏ん張り切れる筈もないのに。
「ネルソン!どこだ?ネルソン!」
大声で泣き叫び、その愛らしい姿を探し求めながら、なぜかオレはネルソンが初めて家にやってきた遠い日のことを考えていた。
そう、あれは今から10年も前のこと。
遅くまで飲み上げ午前様で帰った深夜、オレはリビングの床に置いてある見慣れぬダンボール箱に気がついた。
そっと中を覗き、刻んだ新聞紙のクッションにチョコンと座った手のひらに載るほどの子犬を見つけたのだ。「ほほう、息子の奴ついに犬、買ってもらったのか!」
ヤツはオレを首を傾けて見上げ、なんとかアピールしようとダンボールの壁をよじ登ろうともがいていた。
思わずこっちから抱きかかえてやると、ネルソンは初対面の挨拶代わりにオレの顔を舐めまわした。
その小さな身体からミルクのような香りが心地よく漂ってたっけ。
その日からほぼ毎日、オレはみんなが寝静まった深夜にヤツに愚痴を聞いてもらいながら晩酌をするようになった。
そうだ、あの頃のオレは、仕事の憂さを晴らせるあの癒やしの時間に、何度助けてもらったことだろう。
ネルソンの方も、家族の中から出資したカミさんでもなく買ってもらった息子でもなく、オレのことを“主人”に任免するまで、そう時間はかからなかった。
6才になった夏だったか、暑さに負け縁側の窓を少し開け放して寝てしまい、そこからヤツが逃げ出し、しばらく行方がわからなくなったことがあった。
オレは警察や、動物病院や、保健所にも手を回し、インターネットをも駆使し、半狂乱になって探し回ったっけ。
3日ほどしてヤツがひょっこり帰ってきた時は、どれほど嬉しかったことか。
そのネルソンが、今オレの目の前で嵐の海にさらわれてしまったのだ。
「ネルソン!どこだ?ネルソン!!」
異変に気づいた仲間たちも、一緒になって大声で叫ぶが、もうとっくに波に呑まれてしまったのか、愛犬の姿はどこにも見つからない。
そうこうしている間にも、筏はただならぬ妖気を湛えた黒雲にスルスルと飲み込まれようとしていた。
ここから先はこの世界と元の世界との分岐点、冷静に考えれば、諦める以外にもはや方法はなかった。
「ネルソン…。ご、ごめんな」
オレが口の中でそう呟き、拳で雨粒と一緒に溢れる涙を拭おうとした時だった。
「やめろ!万爺!」突然ダンボの叫び声が聞こえた。
顔を上げると、ネルソンを助けようと闇雲に荒海に飛び込もうとしている義父の姿が見えた。
いつ解いたのか、その身体にはもう命綱はついていなかった。
「お義父さん!」
その声に気づき、一瞬オレを振り返るといつもの優しい笑顔を見せたが、すぐ決意に満ちた真顔に戻ると、荒れ狂う海面をキっと睨みつける。
頭にくくりつけた自慢の鳥打ち帽をちょいと持ち上げてみせたのが、義父なりの別れの挨拶だったのだろうか。
「やめろ!!」
オレ達がその身体を確保する直前に、義父はあっけなく足からドボンと海に身を投げてしまった。
すぐにやってきた大波が、あっと言う間に義父を上から飲み込む。
「おとうさん…!」
オレは、義父を救おうと自分の腰に巻きつけた命綱を解き始めた。
「冷静になれ!」ダンボが取り乱すオレの前に立ちはだかり、頬にビンタを食らわす。「わーさんまで飛び込んでどうするんです!」
一瞬で正気を取り戻しへなへなと座り込んだオレが、未練がましく波間に目をやると、けなげにも荒海の中を顎を上げ犬掻きをしながら過酷な運命と闘い続けるネルソンの小さな頭が見えた。
「いた!」
すると、波に呑まれていた義父が筏とネルソンの丁度真ん中にプカっと浮き上がり、そのままネルソン目掛けて古式泳法の横泳ぎを始めたではないか。
「万爺だ!あそこ、あそこ!ネルソンの方に向かって泳いでる」
しかしその時、筏はもうほとんど黒雲の中にあった。
「お義父さん!ネルソン!!」
後を追おうと泣き叫びオレの身体は、二人の仲間が全力で押さえつけている。
「もう遅い!オレたちは絶対に元の世界に戻らなきゃならないんだ!忘れたのか?!」
ダンボの叱咤の声と自分の泣き声が、黒雲の中の“ゴゴー”と言う摩訶不思議な唸りにかき消されていった。
最後にオレが見た義父は、立派に確保したネルソンを胸に優しく抱え、こちらに向かっていつもの笑顔で小さく手を挙げていた。
「ご、ごめんなさい…」
懺悔の言葉を吐き出した次の瞬間、オレの五感は亜空間を支配する砂嵐のようなノイズに完璧に覆われていた。
そして、あの世界で記憶していることは、ここまでが全てとなったのだ。
冒険は続く…
私の友人の自然音録音家・ジョー奥田氏と写真家・高砂淳二氏とのコラボDVDより