過去を振り返り「あの頃はよかった…」なんて台詞は絶対言いたくないと思っていた。
そんなの今この瞬間を楽しんで生きてない証拠だし、未来への希望なんてありませんと白状してるみたいじゃないか。
でも、こと音楽業界の「あの頃」について語るとき、当時の目眩くような熱気を身体の方が思い出し、どうしてもそう呟きたくなる。
ああ、21世紀になって早いもので11年以上の月日が過ぎ去っていると言うのに、当時の輝きを昨日のように思い出してしまう。
大勢のスター達とそのスタッフ達が、手を変え品を変え「1曲」に全力で入魂していた日々。
ピカピカしてギラギラして…、そう「あの頃」は本当によかったのだ。
今から30年以上も前のこと、あれは新十年紀“80’s”幕開けを目の前にした歳末のある夜。
ソロアーティストとして不動の地位を築いてはいたものの、レコード大賞曲「勝手にしやがれ」以降次の大きな柱を建てられずにいた“ジュリー”こと沢田研二が、ピカピカの電飾を施されたミリタリールックに巨大なパラシュートを背負って歌番組に登場し、日本国中の視聴者の度肝を抜いた。
1980年1月1日発売シングル「TOKIO」。
「ここまでやるか…!」エンタテインメントを全身で体現したようなその姿に、お茶の間の誰もが口をあんぐりと開け脱帽。
当時私は地方営業所の販促を経てやっと帰京し、まだ東京のラジオキー局担当の駆け出しの宣伝プロモーターになったばかり。
もちろん、大衆と一緒にその姿をテレビの前でありがたく鑑賞する立場。
半端な歌手が試みたらチンドン屋になりそうな“仕掛け”を、粋にこなしてしまうキャパシティーに心底恐れ入ったものだ。
本物の「大スター」とその周りを固めるプロフェッショナルなスタッフだけが為せる、一か八かのギャンブルの様な仕業。
念のため言っておくが、あの頃は今のように一握りの限られたファンだけが知る曲をヒットと呼んだりしなかった。
YouTubeどころか、ネットそのものすらなかったあの頃。
情報伝達の機会と手段は上から下へのほぼ一方向、現代とは比較にならないほど限られていた。
だからこそ、音楽は大衆の生活の中心に近いところにしっかり寄り添っていられたのだ。
ジュリーは、あの時ターゲットとなる「全国民」にめがけ、賛否両論を知った上の確信犯として我が身をカメラの前に晒した。
大袈裟に言うと、あのパフォーマンスは、新時代のヒットとは何か?を大衆に問う大スターと言う名のファシストのプロパガンダだった。
案の定、放送の翌日に日本中の話題を「落下傘を背負った男」がかっさらっていった。
業界の端くれでディレクターになる日を夢見ていた私は、こんな凄い人達と勝負出来る訳がないと、心底不安になったものだ。
そんなインパクトからスタートした80‘s〜90’s、愛しき20世紀ポップスの爛熟期への幕開け。
同じく新時代の始まりの記憶に残るのは、ニッポン放送のオールナイト・ニッポンのヘビーローテーションでブレークした、もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」。
深夜放送周りのLFのスタジオで初めて聴いた、あの“あざとい”サビ。
いわゆるアーティスト系のシンガー・ソングライターでありながら、リスナーの耳に必死に縋り付こうとする一発屋のハングリーな熱に、ちょいと震え上がったものだ。
同時期の二つの記憶から導き出される、当時の業界のただ一つの真実。――それは、ミュージックビジネスは「ヒット曲こそが全て!」。
そのジャングルの掟に従い、テレビを日常の舞台とするザ・芸能界も、そこと距離を置き斜に構えた風情のユーミンやサザンなど音楽界の人々も、結局は「1曲」の仕掛けに集中して日々骨身を削っていた。
そして、大衆もそれを心から楽しみにしていた。
だから「あの頃」はよかったのだ。
数年して希望が叶い、その掟の隸(しもべ)たるディレクターという重責を仰せつかったが、当初は社内外の業界の諸先輩方の吐き出す「毒気」にあてられ、業界をうまく歩くことすらできなかったっけ。
直属の上司はピンク・レディー他ですでに歌謡史に名を刻んでいた飯田久彦氏。(現;エイベックス取締役)
想像してみて欲しい。飯田さんは当時も今も心優しい方だが、オーディション番組の審査員席などでよく観るスターのオーラを持つ人物が上席に座る職場で、若者がいきなり伸び伸び出来るわけがない。
同僚と言えば、やがて音楽教科書にも採用された「少年時代」や「瑠璃色の地球」を作曲することになる川原伸司氏や、同期とは言えすでに小泉今日子などを担当していた若手花形ディレクターの田村充義氏など。
しばらくの間、そんな人と競争してヒット曲を目指すことを避け、「いいアーティスト」と「いいアルバム」を作ると言う手段を己のスタイルにするしかなかった。
それでも運良くそこそこの成功を手にした後、荻野目洋子というど真ん中のアイドルの担当を命じられ、魔界のような戦場に投げ出された訳だが、そこで学んだことは今も仕事の考え方の土台になっている。
思い出すのは、たった1曲のシングル候補曲のタイトルを決めるために行われた、赤坂全日空ホテル(今のANAインターコンチネンタルホテル)のラウンジでの夕暮れのミーティング。
その後、観月ありさ、MAX、安室奈美恵、SPEED、DA PUMP、wind-sなど、立て続けに多くのビッグアーティストを育てた若き日の平哲夫社長と、当時気鋭の作詞家として飛ぶ鳥を落とす勢いだった売野雅勇氏の間に入り、なんとか「六本木純情派」というタイトルに辿り着いた時には、赤坂の夜もトップリと更けていた。
激論は闘わせるものの、決定の全ては平社長の独断に頼るやり方だったが、それだけに尖って魅力的なものがいつも生まれていたように思う。
ともすれば双方の意見の間を取り、毒にも薬にもならない中庸のアイデアに落ち着く打ち合わせが多い中、あのやり方は新鮮だった。
魔界ではそんなやり方で勝ち抜いていくしかないことを、この時学ばせて頂いたような気がする。
あの頃、青山スタジオのコクシネールで、キャピタル東急ホテルのORIGAMIで、ホテルオークラのカメリアで、神宮前のカルデサックで、青山のガスコンで、西麻布のレッドシューズで、飯倉のキャンティで、そんなミーテイング、いやヒットという仕掛けを操る魔界の住人達の密会が、当時毎晩毎晩行われていたのだ。
それだけに、今度の○○の新曲は新人作詞家が書いていてこんな仕掛けらしいとか、今作曲家の××先生はA社一押しの新人の曲を書いている――などの情報は、様々なところから嫌でも耳に入ってくる。
それらを意識しながら、自らの仕事に反映させていくのもディレクターの重要な資質だった。
今のように闇雲に「いい曲をお願いします」と面識さえない無数の作家に大量に発注をかけ、ほぼ完成品のようなデモテープの中から好きに選べる時代ではなかった。
心中を覚悟して、これと決めお願いした作家と膝を付き合わせて1曲の譜面を練り上げるしかなかったのだ。
もちろん二股をかけさせて頂くこともあったが、その事後処理には礼を欠く事のないように細心の気を配ったものだ。
もちろん歌詞も同じこと、タイトルの決定はおろか、ほんの少しの手直しまで、ボーカルダビングのスタジオにまで作家が詰め、納得するまで改良が加えれた。
オケのレコーディングも、現代とは隔世の間がある。
今のように、サンプリングされた出来合いの短いフレーズをマウスでペタペタ切り貼りして4小節のパターンを作り、それを好きなだけ繰り返し「はいオケ完成!歌は適当に歌っといて、最後にエディットするから」と言う時代ではなかった。
機材さえあれば、そんなトラックメーカーには一日でなれるだろうが、編曲家はそうはいかない。
こんなことを書くと、いま活躍されているトラックメーカーの方々からご批判を受けるかもしれないが、私は今のやり方でも素晴らしい作品には変わりなく敬意を払っているので、誤解なきように。
さて、当時打ち込みのレコーディングも始まってはいたが、スタジオミュージシャンによる生演奏があの頃の基本。
なんらかの楽器を操ることはもちろん、楽器・楽典を熟知し、ミュージシャンの資質を熟知し、レコーディングのなんたるか、業界のなんたるかを、知り抜いているスタジオ内の支配者。
そんな編曲家との打ち合わせも、ディレクターの重要な仕事の一つだった。
参考資料を集め、プロを相手にこちらの趣旨を完璧に伝えきるには、それなりのポップスへの造詣と愛情がなければ不可能。
阿吽の呼吸で意図を伝えることが出来る共通言語を持つ編曲家を見つけ出すことが、ディレクターの資質の一つだったかもしれない。
私にとってのそんな人々は、清水信之氏、新川博氏、西平彰氏、鷺巣詩郎氏、水島康貴氏などだった。
彼らとアレンジの段取りを整え、それらすべての調整を魔界の人々達と精密に行い、オケをレコーディングし、ボーカルを完成させ、ミックスし、一遍のヒット曲候補に仕上げる。
その作業は決して花形の横文字職業のイメージではなく、夢見がちな錬金術師の類と言ってよいほどだった。
でも、私はあの頃のやり方が圧倒的に正しく感じられ、それだけに懐かしく思い出されてしまうのだ。
CDパッケージの陳腐化など音楽業界を取り巻く環境の劇的変化のせいで、多くのアーティストが「ヒットさせること」を半ば諦めてしまっているように思えるのは、私だけだろうか?
ヒットさせることが難しくなっていると言う理由で、「狙っていないもの」つまり「一曲に入魂していないもの」でいいのだと妥協してはならないと思う。
日本中津々浦々に鳴り響くヒットなどもうないのだと完全にあきらめ、それぞれのサロン化した固定ファンに向けて可も不可もないそれなりの曲を申し訳なさそうにリリースする。
そんな去勢されたやり方を良しとしてしまったら、益々先細るに決まっているのに。
いま圧倒的に結果を出している数少ないプロジェクト、AKB48や、EXILE、perfumeなどの中にも、私はしっかりと「20世紀ポップス」の香りを感じている。
それは、秋元康、HIRO、中田ヤスタカと言う一曲入魂を知るプロデューサーの力にほかならない。
しかし巷の津々浦々にまで浸透し誰にも愛されているか?と言う点で、「あの頃」とは比較にならないような気がするのも事実だ。
ジュリーが落下傘を背負ってテレビに出てから数十年の時を隔てた、2011年初頭のある日のこと。
縁あって近年再び一緒に仕事を始めたビクター当時の後輩ディレクターとともに、私は彼のスタジオのコンソールの前でYouTubeが映し出す沢田研二の華のある勇姿をボンヤリと眺めていた。
後輩の名前は野澤孝智――今はフリーだが、ずっとSMAPを手がけ日本でもっともポップスを売ったプロデューサーの一人だ。
彼もまた、いまだに「あの頃」のポップスの一曲入魂の作り方にこだわり続ける同志。
このスタジオに出入りする仲間であるEXILEのシングルなどを手がけるFace 2 fAKEの二人に引き合わせてくれたのも彼だ。
Face 2 fAKEのOh!Beは日本ポップス界にその名を刻む筒美京平氏のかつての愛弟子、相方のAchilles Damigosは私のソニー時代の同僚が制作を担当していた元アーティストだった。
この二人もこよなくポップスを愛し、一曲にありったけの魂を込めるタイプのプロデューサー達。
「なあ、DaBaDaにしない?」
皆で一緒に立ち上げようとしていた配信のみのオーセンティック・ポップ・レーベルの名前は、この場で決まった。
目の前のモニターでは、沢田研二が阿久悠氏作詞の「酒場でダバダ」を歌っていた。
20世紀ポップスの担い手として、DaBaDaが送り出したSee Stars Crew(シー・スターズ・クルー:シスクル)の誕生については、また次の機会に…。