知的探求や知的冒険の自由の保障されている学級は、のびやかな活気があります。
生気と躍動があります。
どの子も、勉強が好きになってきています。
ついさきごろまで、自分はあほだとか、ぼくはできない子でだめだと思いこんでいた子が、別人のようにぐんぐん勉強にとりくんでいくのです。
奇跡のようですが、しばしば起こってくることです。
できない子、落ちこぼれの子とみられる子は、入学以来、知的教科の面で、およそ成功したり、達成したという体験がほとんどないのです。
授業中に、先生がたずねたことに対して、正しく答えることができたということは、だれにでも言えるような易しい答え以外には、めったになかったのです。
漢字を書いても、計算をやっても、のろくて、下手くそで、おまけに×ばかりだったのです。
当然、まわりの大人は、その子を賞めることなど、ついぞありません。
糞味噌にあほというだけです。
友だちにも、「お前、あほか]と、しじゅう言われます。
学校での勉強は楽しいものではなく、だんだんと苦役になっていきます。
自らの知的能力に自信を失っている子は、授業中、ずっと無気力のままでいます。
どうせやってもだめだと諦めています。
自らに対する無力感で、おおわれているのです。
ところが、その子が、知的教科の授業で、他の子の気付かなかったことを言って、それが高く評価されたとしたら、すごくうれしいものです。
少しやる気が出ます。
つぎの機会に、先生も考えつかなかったことを指摘するなどすれば、学級中がびっくりします。
おれはどうやら、あほではなさそうだと思い始めます。
二度あることは三度ある、です。
三度目、独創的な感想を述べます。
讃嘆の的となります。
ぼくは、どうやらできる力があるらしいと、自らの知的能力の可能性にめざめてきます。
そのきっかけは、話すことが主になった授業で、他の子が見つけられなかったことがらや、だれも気付かなかったことをとらえて、みんなの前で発表し、それが高く評価されたときが多いようです。
文学教材は、個性的な読み取りをする上で、好適な学習素材となります。
特に詩がいいようです。
自由な発想や、イメージがどんどん出せるからです。
教育評論家・大木一雄