2010年10月29日

プールの時期

梅雨が明けるとプールです。

2時間は費します。

学校中に、プールからかん高い声が聞こえてきます。

そわそわして、勉強になりません。

それに、7月は暑い日ばかりです。

40余日の夏休みが終わると、1ヵ月ばかりは運動会の練習です。

スピーカーからは一日中、浮き浮きしたリズムが流れ、喚声が上がります。

勉強など上の空になりがちです。

10月中旬、やっと学校は静けさを取り戻します。

その学年の最重点の教材が、目白押しに並んでつぎつぎと登場してきます。

落ちこぼれを出すか出さないかの分岐点です。

教師としての最高の技術と、最大のエネルギーの投入を要する時期です。

親たちの協力は必須です。

共同して、こどもの学力をしっかりつけ切るように取り組まなければならないのです。

この大切な時期を前にして、「べんきょうがしたくなる時いやになる時」という題で、一斉に作文を書かせました。

事前に、こども向けの一枚通信に、こんなことを載せ、説明も加えたのです。

教育評論家・大木一雄

2010年10月28日

勉強の山場を前

10月初旬の日曜日は運動会です。

こどもたちの家族が揃って見に来ています。

こどもたちの座席の後ろに親たちはいます。

父親とは、初めて顔を合わすのですが、前から知りあっていたような近しさを感じます。

「父の仕事」とか、「お父さんへの注文」といったことで、作文を書かせたためでしょう。

こどもが、自分の父を指差して教えてくれます。

会釈を交わします。

「どうもお世話になりまして凶とあいさつを受けると、「おけがが早く治ってよかったですね]とか、「仕事の方は順調ですか。

たいへんでしょう]と、作文を通じて知り得ていることをもとに話を出します。

あとで、こどもには、「いいお父ちゃんだな。

やさしそうで、いっしょうけんめいがんばっているね凶と、印象を伝えておきます。

こどもは、とても喜び、その父を誇らしく思います。

だめ親父では、こどもに教育的影響力を行使することはできません。

りっぱな父親だと信じてくれてこそ、すばらしい教育力を及ぼすことができるのです。

いずれ、こどもをうんと伸ばす上で、父親に一肌ぬいでやってもらわなければなりません。

母親だけでは限界があります。

教師とて、一人一人のすべてにまで目が届きません。

ここという時に、父親にがんばってもらうためにも、その権威は大切にしたいものです。

一学期も半ばを過ぎると梅雨です。

気分が重たいです。

こどもも欝陶しい顔つきでいます。

教育評論家・大木一雄

2010年10月27日

作文を書かせる意図のひとつ

作文を書かせますと、こどもの気持ちや願いがよく分かる教師になっていきます。

忙しさにかまけて、ちっとも作文に身を入れなかった年は、こどもの心がよく分かりませんでした。

問題児も多く出ましたし、けんかもしばしば起こっていました。

よく書かせた年は、こどもとしっくりいきました。

こどものねがいや気持ちがリアルに分かりました。

教育者が教育されたのです。

親もよく見、兄ました。

親ともなかよくなりました。

いまもつきあっている親は、みな作文をよく書かせたときの親です。

忙しいということは、こどもを思う心を亡くすという意味です。

どんなに多忙であっても、月一回は作文を書かせることです。

多人数学級なればこそ、欠かしてはならない大切な営みです。

こどもの心の分かる教師、親や家庭のくらしの見える先生になるため、こどもにその生活を綴らせるという仕事は、絶対にゆるがせにしてはなりません。

こどもの作品は、教師のやる気のエネルギ!源なのです。

教育評論家・大木一雄

2010年10月26日

分かる・見える先生に

こどもにぴったりした題を与えると、どの子もよく書きます。

当初は、一部の作品だけ印刷するつもりでいるのですが、目を通すと、ついどの子の作品もガリに切ってしまうのです。

多忙なので、時間のやりくりがたいへんなのですが、とにかく印刷します。

多忙といっても、実のところ、会議また会議です。

たしかに、文集をつくる時間はほとんどありません。

ですから、毎日、少しずつやっていくのです。

4ミリ方眼の孔版原紙に、鉄筆で一枚ずつ印刷していくのです。

ほぼ1800字分です。

午前中の休み時間も少しずつやります。

給食を配る時にも書きます。

放課後も30分ばかりやります。

印刷は10分もかかりません。

むりのないように、やっていきます。

そして、朝の時間に、でき上がった一枚文集を配って、読み上げるのです。

心をこめて読んでやります。

なるほどと同感してやります。

こんなことを考えているのか、えらいなと賞めてやります。

おとうさんのこと、こんなにも心配しているのか、やさしいんだねと言ってやります。

こんなことをしてほしいの。

じゃ、参観日のあと、よく頼んでおいてあげると約束もします。

どの作文でも、必ず表現のうまいところはここだといいます。

気持ちや考えのよいところはこれだと指摘してやります。

読んだあと、作者はにこっとしています。

他の子も共感を示します。

教育評論家・大木一雄

2010年10月25日

こどもから親へのねがい

授業参観日の一週間前には、「おとうさん、おかあさんへのおねがい」という題で、作文を書かせました。

授業のあとの座談会で、白けた話をしたり、抽象的な教育論を言ってみるのは、おたがいにおもしろくありません。

それよりも、わが子の作品を前に、親への注文を知り合う方が、話し合いもずっと弾みます。

生き生きと意見が交わし合わされます。

よそごとでいるわけには参りません。

実践的な論議ができます。

すでに何人か育ててきた母親は、講師?にもなってくれます。

そして、親同士がすぐ親しくなります。

もちろん、教師との距離も、一挙にちぢまります。

教育評論家・大木一雄

2010年10月24日

親のしごと

こどもたちを担任して、まず知っておきたいことの一つは、親の仕事です。

母親の仕事は、小二年の子にでもよく分かる仕事が多いのです。

家事や、パートの仕事です。

ダイエーのレジをやっているとか、縫製工場でワイシャツのボタンつけをしているとか、家の近くで働いていることが多いので、こどもにょく分かっているのです。

ところが、父親の仕事となると、ほとんど知っていません。

どこへ勤めているのかと聞いても知っていません。

どんな内容の職務についているのかなど、全く知らされていません。

小二年の社会科では、商店・工場・田畑.海で働いている大人の人たちのことを習うのですが、こどもにとって最も近しい父親の仕事については、何にも知っていないのです。

社会科の勉強のためにも必要ですし、教師が担任している子の家庭のことを知る上でも大切なことですから、「おとうさんのしごと」を書かせました。

金曜日の課題として、「月曜日に、おとうさんのしごとという題で作文を書いてもらいます。

おとうさんはどんなしごとをしているのか。

しごとをしていて、どんなことがうれしいか。

どんなことが苦しいか。

きょうの晩、ちゃんとおとうさんに聞いておきなさい。

もし、おとうさんが遅く帰ってきて、しごとの話を聞くことができなかったら、あすの土曜日の晩か、日曜日に聞いておきなさい。

月曜日に、作文を書いてもらいます」

と予告し、連絡帳にも記入させておきます。

月曜日は、作文に二時間を当てます。

第三・四校時に書かせるのです。

書き上げられなかった子には、「たくさん書くんだな。すごいね。給食が済んでから残ってやってもいいよ」と勧めてやります。

十人ほど、他の子が帰ってからも書きつづけました。

どの子もよく書けていて、全員印刷してやりました。

それまでに、聴写・視写を毎日のようにやっていましたから、読みづらい表記や、きたない字の子はほとんどいませんでした。

教育評論家・大木一雄

2010年10月23日

作文

作文を書く場合には、経験したことを、時系列にそって正確に想起し、字句を選択し、叙述形態を吟味して書いていかなければなりません。

内言を用いての自らへの語りかけや問いかけが継起されます。

過去の出来事を思い起こすことによって、その意味を分析し、語彙を選び、順序立てて文章を構成していかなければならないのです。

書くことは、分析と総合の無数のくり返しです。

そして、認識能力が高められていきます。

書く過程は、考える力をうんと伸ばす過程でもあります。

書き上げたとき、こどもは、達成感・成就感を味わいます。

特に長い作文を書き終えたとき、しんどかっただけに、その喜びもひとしおです。

充足感があるのです。

一つのことに集申し、しかも、長時間持続してやり抜いたという学習体験は、以後の困難な学習課題を克服する時に、みごとに生かされていきます。

粘り強く、とことんまでやり通す子になっていくのです。

小二年という年頃は、話言葉中心の言語世界から、急速に書き言葉の世界に移行している時期です。

こどもたちも、書き言葉に大いに興味を持ち、どんどん身につけていこうとしています。

少々の量にはへこたれないだけの学習意欲をもっています。

書く課題をどしどし出してもやりぬいていきます。

指先の小筋も相当発達してきて、字を書く速度も増してきています。

こどもにぴったりした題材を示してやりますと、どの子も勢いこんで作文を書いてくるものです。

教育評論家・大木一雄

2010年10月22日

話言葉から書き言葉へ

文字を覚えた子に、知っている言葉や、伝えたいことがらを文字で表すように勧めると、どんどん書いていきます。

原稿用紙に文を書き綴っていく上での正しい表記法を、しっかり覚えこませておくと、思いの外、きっちりと書いていくものです。

小二年の頃は、ひらかなは、たいていの子が自由自在に使えるようになっています。

適切な題さえ与えれば、頭の中で思い浮かべたことは、何の苦もなく書けるようになってきています。

高学年の子のように、他人の目を意識して書くことなど、まずありません。

上手に表現しなくちゃという焦りもありません。

思ったままを、すなおに書く年頃なのです。

この時期、こどもは書くこと、つづることが大好きなのです。

むちゅうになって書いていきます。

いくら多忙な教師でも、月に一回ぐらいは、こどもに作文を書かせるべきでしょう。

与えられた勉強ではなく、自らを表現することのできる勉強は、こどもの活力を育てます。

書くことの楽しさを実感させます。

かなり長時間、一つのことに打ちこんでやりつづけていくという集中力もついてきます。

おしゃべりしているだけではつかない耐忍性や、克己心も培われます。

教育評論家・大木一雄

2010年10月21日

日本地図

教室にある日本地図に注目させ、雪国とは、日本海側だと教えてやります。

「お米がたくさん、たくさんとれるところだよ]と、言いそえておきます。

「先生、あのね、もう春がやってきたのです。もう、雪はふらないのです」その通りです。

そのとなりの子がつづいて、「いままで冬の間、大人が雪かきをしていたのです。もうしなくてもよくなったのです」とつけ足してくれました。

きのうの他の子の意見で触発されたのでしょう。

「草や花までが、雪かきぼうきさん、さようならと、とむらっているんです]卓見です。

ほんとです。

言われてみると、まさにそういった情景です。

だれもいない川っぶちで、老いて永眠したほうきーその周りを草や花が見守っている。

告別そのものです。

どの子も、その情景を描けたのでしょう。

しんとしていました。

いま二年生の小さなこどもたちの心にいずれは直面するであろう哀しみの予感が、よぎったにちがいありません。

わずかの時間の授業ですが、こどもの発言したことに、心から同意してやったり、共感のことばを与えてやることが、こどもをして授業の主人公にしていくのです。

成績のあまり冴えない子が、意表をついたとらえ方をしていたり、できない子とみなされている子が、鮮やかな感じ方をしているということが、みんなの前に明らかにされます。

それは、創造的な言語表現活動にもなっているのです。

決して、おしゃべり授業・たれ流し授業ではありません。

こどもの感性を磨き、自信を育み、学力を伸ばす契機ともなるのが、文学の授業です。

文学のもつ固有の発達的意義を、今後、り深めたいものです。

教育評論家・大木一雄

2010年10月20日

文学のもつ発達的意義

あくる日、「きのう、どうしても言いたかったのに言えなかった人や、読んでいて何か気がついたり、分かったりしたことのある人に、きょうは言ってもらいましょう凶と、切り出しました。

あどけない男の子が言いました。

「この子はね、まだ小さい子でね、おかあさんがすきなやさしい子だということが分かります]「どうしてそんなことがわかるの]「だって、おかあさんがいやだったり、こわかったら、こんな話などしない。

ぼくらが言うたら、幼稚やねと言われる別な子が言います。

「きっと、夕方か、晩ごはんの時に、おかあさんに話しかけている。

昼の間、おかあさんはどこかへ行っていてね、帰ってきたので、話したくてたまらなかったんだと思う凶なぜ、こんなことに気がつくんだろうと、不思議にさえ思われます。

「冬の間、毎日毎日、ほうきは使われていたんだよ。それで、もうこわれてしまった。もう使えなくなったほうきだ。だから、もう捨ててある」

地図については自信のある子が、「よく雪が積もる地方です。雪国の子です。北陸やと思う」

他の子は、ポカンとしています。ホクリクなんて知っていません。

ちょっと説明を加えてやります。

教育評論家・大木一雄

2010年10月19日

最初の発問

最初の発問は、だれにでも答えられる易しいものでなければなりません。

ふだん、あまり目立たない子に当てます。

「うん、その通りだね。よろしい」と、大きくうなずいてやります。

「さっきは、みな上手に読めました。

きっと、いろんなことを思ったり、気がついたりしたでしょう。

それを言って下さい凶こどもは意気ごんでいますから、しっかりと手を上げてくれます。

「なんと、みな手を上げているね。

どの子から当てたらいいのかな。

困ってしまった]「先生、ぼく、ぼくに当てて]なんていう子もいます。

「じゃ、この時間は、はしから順番に言ってもらいましょう凶といいます。

「このほうきね、雪の下で、長い間よくがんばっていたねと思った凶と、私と同姓の和香波ちゃんが言います。

二年前、ずっと入院していた子です。

生死のほども危ぶまれるほどの大病だったのです。

意識が戻ってからも、ずっと病院ぐらしをしていたのです。

自らの体験と、雪かきぼうきとを重ねあわせての思いから出た言葉なのでしょうか。

「ほんとに、だれも来ないところなのかな凶と、疑問を呈したのは池田さんです。

あたたかい両親に育てられ、ひとりぽっちになどなったことのない、やさしい女の子です。

だれも来てくれないといった生活など、想像もつかないのでしょうか。

そんなのには耐えられないといった口調でした。

「静かなところに捨てられていたんだね]とは、佐井さんの感想です。

佐井さんの家は川のそばに建っています。

流れの音は毎夜耳にしています。

雪など積もりようもなく、すぐ消えていきます。

人は道を絶えず通っています。

車もです。

ピアノも聞こえます。

佐井さんのくらしにはないような、遠くの、静かなところに捨てられている雪かきぼうきへの思いやりのこめられた感想なのです。

教育評論家・大木一雄

2010年10月18日

こどもたち

チャイムが鳴るまで45分間、ほとんど切れ目なく、こどもたちは語りつづけました。

友だちが言うのに触発されて、いろいろとイメージが湧いたのでしょう。

友だちの発表から連想して、考えがふくらんでいったのでしょう。

下手にまとめようとしたり、形式にこだわったり、板書にきちんと書かねばなどとは一切考えず、こどもの言うことに耳を傾けてやることこそ、自由闊達な話し合いを育てるカギだと思います。

どの子もが、のびのびと自分の思ったことを述べ合う雰囲気をつくることこそ、落ちこぼれをなくすための何よりの基盤なのです。

どの子もが、それぞれに個性的なことが発表できる詩の教材の一つに「雪かきぼうき」があげられます。

「目をつぶってごらん。

いま読んだところの様子が、何か目に浮かびませんか。

何か見えますか。

もう一度、先生が読みますよ。

また、何か見えたら、覚えておいてね凶と、小さな声でまた読みます。

こどもたちはしんとなって聞き入っています。

「さあ、目を開けなさい。

小さな声で二回読みなさい]はじめは声が揃っていますが、すぐばらばらになり、好みの速さで読みます。

「もう一度読んでもいいよ凶と促すと、くり返して読んでいます。

ほとんどの子が読み終えたとき、「今度は、声を揃えて、ゆっくり読みましょう。きょうね、はい」どの子も息が合って、きれいに読み上げます。

「どんなところかな]と問いかけると、みんなの手が上がります。

教育評論家・大木一雄

2010年10月17日

自由な発表

室生犀星の作った詩に「あひるの歌」というのがあります。

あひる/あひる/さむくはないか/水の中/水をくぐって/魚を食べる/あひる/あひる/雪ふる中で/はねをばたばたそうじする/さむくはないか/水の申こんな詩です。

何も注釈はつけず、予備的な発問もなしで、こどもに聞いてみました。

「この詩を読んで、どんなことが頭に浮かびましたか凶と問うと、さまざまな感想が出てきました。

「水の中は、さむくはないのかねとたずねているみたいだ]「女の人でおしゃれな人は、薄着をするでしょ。

さむくても薄着をしているでしょ。

それとおんなじみたい。

あひるは、おしゃれ好きです]「なんだか、さびしそうです。

雪がふってるのに、外にだあれもいない。

さびしい]「あひるって、さむくっても平気なんかしら巴「あひるはさむくはないのかなと、作者は思っているのです]「あひるは、水が好きなんですロ「作者が、あひるを好きに思っている]「生の魚を食べるのは、おいしいのかな凶など、つぎからつぎへと、こどもたちは立って言います。

どれも、私の予想もしなかったことがらでしたから、なるほど、へえ、ほんとだなといった相槌をずっと打っていたのです。

教育評論家・大木一雄

タグ:大木一雄

2010年10月16日

活気

知的探求や知的冒険の自由の保障されている学級は、のびやかな活気があります。

生気と躍動があります。

どの子も、勉強が好きになってきています。

ついさきごろまで、自分はあほだとか、ぼくはできない子でだめだと思いこんでいた子が、別人のようにぐんぐん勉強にとりくんでいくのです。

奇跡のようですが、しばしば起こってくることです。

できない子、落ちこぼれの子とみられる子は、入学以来、知的教科の面で、およそ成功したり、達成したという体験がほとんどないのです。

授業中に、先生がたずねたことに対して、正しく答えることができたということは、だれにでも言えるような易しい答え以外には、めったになかったのです。

漢字を書いても、計算をやっても、のろくて、下手くそで、おまけに×ばかりだったのです。

当然、まわりの大人は、その子を賞めることなど、ついぞありません。

糞味噌にあほというだけです。

友だちにも、「お前、あほか]と、しじゅう言われます。

学校での勉強は楽しいものではなく、だんだんと苦役になっていきます。

自らの知的能力に自信を失っている子は、授業中、ずっと無気力のままでいます。

どうせやってもだめだと諦めています。

自らに対する無力感で、おおわれているのです。

ところが、その子が、知的教科の授業で、他の子の気付かなかったことを言って、それが高く評価されたとしたら、すごくうれしいものです。

少しやる気が出ます。

つぎの機会に、先生も考えつかなかったことを指摘するなどすれば、学級中がびっくりします。

おれはどうやら、あほではなさそうだと思い始めます。

二度あることは三度ある、です。

三度目、独創的な感想を述べます。

讃嘆の的となります。

ぼくは、どうやらできる力があるらしいと、自らの知的能力の可能性にめざめてきます。

そのきっかけは、話すことが主になった授業で、他の子が見つけられなかったことがらや、だれも気付かなかったことをとらえて、みんなの前で発表し、それが高く評価されたときが多いようです。

文学教材は、個性的な読み取りをする上で、好適な学習素材となります。

特に詩がいいようです。

自由な発想や、イメージがどんどん出せるからです。

教育評論家・大木一雄

2010年10月15日

映像とは

映像はひとり歩きをします。

子どもは一つの映像を手にすると、さらにもう一つの映像を手に入れたくなります。

しかもその映像が刺激の強いものであればあるほどますます刺激の強いものを手に入れようとします。

人間の大脳に焼きつけられた刺激は、徐々に慣らされ、やがて初めの頃には到底堪えられないような映像も抵抗なしに受け入れてしまうのです。

映像は、単に映像だけにとどまっていません。

映像を実際に試したくなります。

映像の行動化です。

教室の子どもによくみかけるテレビのまねがそのことを裏づけています。

さかんにコマーシャル、お笑芸人のことばを言う子、「そんなの関係ねえ!そんなの関係ねえ!」と二言目には口に出す子。

「ヘンシーン」といって、顔の前で手をぐるぐる回してみたり、窓から飛び下りてみたり、「ヒーハー!」と大きな声で言ったり。

数え上げれば、きりがありません。

子どもはテレビ画面の動作をすべて日常生活の動作にしてしまうのです。

テレビゲームのまねか、ダンボール箱にひもをつけて廊下中をひきずり回して、棺桶だという。

校舎の裏側で、そのダンボールに入ったまま授業中ひそんでいて、大騒ぎになったとか。

現実と映像(虚像)との判断さえ狂わされるほど映像のもつ影響は大きいのです。

そしてその結果は大けがをする子、宮崎少年のような殺人まで冒す子になっていくのです。

教育評論家・大木一雄

タグ:大木一雄

2010年10月14日

軽妙なコマーシャル

軽妙なコマーシャルに乗った子どもたちは、白砂糖いっぱいの甘い甘い菓子を口にほおばり、塩分たっぷりのインスタント食品やスナック食品で身体を蝕ばまれ、落とせばたちまちこわれるようなチャチな、それにしては高価なキャラクター玩具を買わされるのです。

こうして子どもたちは、物の真価の判断を狂わされてしまいます。

「あなた作る人」、「わたし働く人」「わたし遊ぶ人」などとうそぶいて掃除を怠ける子どもが出てくるといったことに表わされるようにいつの間にか、子どもの中に浸透し、生産労働の価値を忘れた商業主義に毒されていくのです。

ここには、「わたし、売りまくる人」という仲介者が隠されていることを忘れてはならないのです。

ところで、テレビCMの規制はどうなっているのでしょうか。

主な先進国のCM量規制でみると、日本の規制はたいへんゆるいことがわかります。

教育評論家・大木一雄

タグ:大木一雄

2010年10月13日

テレビのCM

CMは子どもに正しい物のねうちを誤らせるのでは・・・?

子どもの筆箱を開いてみると、必ず何人かの子どもの中に筋肉マン消しゴムが入っています。

あるいは、今流行の練り消しゴムや匂いのある消しゴムなど。

カバンの中からは、アニメを描い下敷がでてきます。

定規といえば、光の角度で図柄の変る斜光入りのアニメ定規。

ミニカーが出てくる・・・・・。

続々と出てきます。

すべて人気テレビ番組のキャラクター商品です。

子ども人気番組は笑いが止まらないほど商売が成り立つといわれています。

1963年「鉄腕アトム」を放映した明治製菓が、マーブルチョコだけで400万人、2億円もの売り上げを得たことは、今も語り草になっています。

子ども番組は、それほどコマーシャルの影饗日が大きいわけです。

スポンサーが子どもを狙え!大騒ぎするのは当然です。

子どもは、CMをすなおに受け入れます。

人気タレントが、画面の中に颯爽と登場し、視ている子ども一人ひとりにささやくように、大写しになって語りかけます。

ときには説得調、ときにはダジャレ調、ムード調、さまざまな話術を駆使し、名曲、迷曲をふんだんに入れ歌と踊りまでもつける、これでもか、これでもかと喧伝します。

純真で世慣れない子どもは、この戦法にコロリと参ってしまうのも当然でしょう。

食品会社、玩具会社が子ども向け番組のベスト1、2のスポンサーです。

教育評論家・大木一雄
タグ:大木一雄

2010年10月12日

テレビの刺激の強いシーン

未発達の子どもたちにこのような刺激の強いシーンを視せると、どういうことになるのでしょうか。

児童文学作家の岩崎京子氏が、ある講演で、自分が幼児の頃に経験した自然の美しさの一駒が、いつまでも心の中に原画となって焼きついており、その後の成長していく中で、たえずその美しい原画が美への志向の原点になったという話をされましたが、氏の「かさごじぞう」のその心暖まる話の原点が、このような心の中のあたたかさの原画があったのかと今知るのです。

もし、逆に刺激の強いあくどい原画を仕込まれ、焼きつけられた子どもならば、その後の成長にどんな悪影響を及ぼされるのでしょうか。


テレビ体験は偽の体験です。

、一つのエピソードとして、次の話を・・・。

盲目で聾唖という三重の障害をもって生まれたあのヘレンケラー女氏の教育に対して、先生のサリファン女史が、水を手に触れさせて水の感覚をもたせ、手のひらに文字を書きことばを教えていったこと、一つひとつの事象を体験させていくことで、これをことばと結びつけて、言語の獲得をさせていったことは有名な話です。

そして、子どもは、これと全く同じくして言語を、知識を獲得していくことを忘れてはならないでしょう。

テレビによる体験は、全く偽の体験であることを念頭においておかなければなりません。

教育評論家・大木一雄
タグ:大木一雄

2010年10月11日

テレビは娯楽

第二は、娯楽番組の内容です。

恰好のよいタレントが、ぞろぞろと着飾って登場します。

舞台は豪華絢欄です。

子どもたちは、この華やかさに目を奪われ、心も奪われます。

自分もいつかはあのようにという憧れを持ちましょう。

しかし実現の可能性はほとんど零です。

最近の番組には制作の貧困か、あるいは視聴率を上げるための人気とりか、さかんに視聴者参加番組がつくられています。

参加者は、一時的にタレントになった気分を味わうことができ、よりいっそうのタレント熱が煽られていくのです。

中にはわずか3〜4才の子どもが、厚化粧し、豪華な衣裳を身にまとい、訳のわかりもしない変な演歌をまねして歌うばかりか、ゼスチャーまでも入れて、体をくねらすなど・・・・・。

それをまた観客が、手を叩いて甦し立て喜ぶなど、もはや世も末かとも思われる光景が繰り広げられます。

子どもがひとたびタレント熱にとりつかれるやもうその子には将来はないといってもいいくらいの現実と遊離した精神状態におち入ってしまうのです。

さらに第三の困った問題があります。

いわゆるいかがわしいシーンです。

殺人、暴力、破壊、セックスとさまざまなきわどいシーンが続発してきます。

映画館での映画は、馨の意思による選択ができますが、テレビは子どもたちの生活の場・茶の間に断りなしにズカズカと入り込み、遠慮会釈なしにだれかれに見せつけてしまいます。

日本フィールドアスレチック協会の1979年での調査によれば、一日のテレビの中で、90人が殺され、36人の女性が暴行され、5人が自殺しているというのです。

そのほかに暴行場面が46、破壊場面が26、窃盗場面が2、発砲・爆破場面が19もあったと報告されています。

教育評論家・大木一雄
タグ:大木一雄

2010年10月10日

テレビは癒し?

テレビで子どもの心は癒されるか。

表22に、子どもの好む番組を上げさせ、その十5位までを集計してみました。

すべてといっていいほど動画、劇画ばかりです。

子どもたちは、テレビに強烈な娯楽を求めていることがわかります。

高学年の子になると、それでも何人かの子が、「ニュースステーション」なども上げていますが、ほんの数人でしかありません。

これらの番組は、たいていが連続もので子どもたちは、次への期待を抱いてチャンネルを合わせていくのです。

この番組の時間がくると、何をおいてもテレビの前に座っている。

つまり自分の生活をテレビに合わせていくのです。

動画、劇画などのアニメーションや歌謡番組やお笑い番組、そして、いろいろなクイズもの、これらの娯楽番組のすべてが悪いということはいえないまでも、大方のものには、危険性がはらまれています。

その第一はテレビの色彩です。

カラーテレビは、テクニックカラーですからもちろん自然の色彩ではありません。

とくにマンガは自然色に近寄らせようとする気使いは一切不必要ですから人工的そのものです。

画面効果を上げようとするためには、極彩の色調をつかいます。

殊に赤色のカラーなどは、まるで毒々しいばかりの強烈さを映し出します。

子どもが、このようなどぎついカラーに目が慣らされると、本当のニュアンスの微妙な、和らかみのある色彩感覚をなくしてしまいます。

同じ青でも、さまざまな青があるのですが、そのちがいの感覚を知ってこそ美的なものを賞味できるのです。

草木などの自然に触れ、その生き生きとした生命感に触れるためには、どうしても微妙な色彩感覚が必要なのです。

教育評論家・大木一雄
タグ:大木一雄
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