2012年05月05日

ヤツが帰ってきた

 長らくこのブログを放置してきた。
 もはや僕自身も存在を忘れてしまっていたぐらいなので、誰も覚えていなかったのだろう。しかし書き手にさえ存在を忘れられてしまったこの哀れなブログは、0と1で構成されているこのデータの海の中で、ひっそりと生き続けていたようだ。そして、僕がふとしたことから検索してみたことで、期せずして復活の時は来た。

 現状について少し書く。僕はシンガポールから帰国したのち、言わずもがな田町にキャンパスを構える大学に再び通い始めた。そしてその後紆余曲折を経て(僕の人生において決定的なターニングポイントになったのだが、僕自身いまだ気持ちを整理しきれていない)、去年の8月に就職した。就職先は東京からみれば郊外にあるので、中高6年間および大学4年間を過ごした東京とは袂を分かつことになった。
 そんなわけで今は働いている。「働いている」とは、当たり前のようなことを書くようだが、僕にとってはいまだ不思議なことである。というのも、「自分のような人間が将来組織の中で規律を守って働いていけるのだろうか」というのは学生時代常に僕を悩ませていた命題であったわけで、それが僕にとって常にコンプレックスでもあった。シンプルにいえば、「社会性の欠如」というわけで、かといって組織から外れて一人生計を立てるほどの技術も才能も甲斐性もなかった。まあ、こういうことが多くの人が感じていることでもあるので、別に取り立てて珍しい悩みでもあるまいが。

 とにかくくどいようだが、今は働いている。働いてみると人間は薄情なもので、それまでの貧困問題や格差社会への関心は、一瞬のうちに雲散してしまった。人間とは問題が人ごとになるとかくも関心がなくなるものかと、我ながら愕然とした。就職活動に苦しむ大学生にすらこれほどシンパシーが失せてしまったのだから、もはやアメリカ大統領選の行方や、ヨーロッパの経済状況などにはこれっぽちも関心がない。そしてそういうのはあまり健全な状況ではない。

 なにせひさしぶりに文章を書いたので(ブログの更新をやめて以来、文章を書くのをやめてしまっていたのだ。なぜなら文章を書くのは否が応でも自分と向き合わなきゃいけないような気がしていたから)、どうも何を書きたいのか自分でもはっきりとしない。
 今回はただの復活宣言に過ぎない。物語はここから始まるのだ。
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2009年08月06日

変化のチャンスは網棚に転がっている

 先日、電車に乗っていたら網棚に放置された週刊現代を発見した。僕は週刊現代を「ゴシップ記事に埋め尽くされたジャーナリズムの末端にいる雑誌の一つ」とする先入観を持っていたため、雑誌のタイトルを見たと単に「なんだ週刊現代か」と鼻で笑って網棚に戻した。しかし考えてみると僕は週刊現代を読んだことは一度もないし、これから先買う予定もないのだから、今回読まなければ向こう何年も週刊現代を読まない生活をするであろう。ならばこれは週刊現代に触れる数少ないチャンスなのではないかと思い返し、もう一度手に取った。
 ちょうどその日の僕は東洋経済なんつう雑誌をめずらしく読んでいたので、拾った週刊現代はカバンの中に入れて家に持ち帰った。その日の夜、寝る前にちょっと読んでみたのだけど、いやはや先入観とは怖いものだと思った。読んでみたらゴシップらしい記事は少なく(週刊文春とか新潮よりよっぽども少ない)、むしろ我々の生活の近くで起こっていてそれでいてよく理解できていないことを取材を基に詳しく書かれているという点で、習慣雑誌の役割をしっかり果たしている面白い雑誌だった。企画の着眼点もなかなか面白く、その上コラムとか連載もある程度充実していて、全体的なバランスが良い印象が持てる。なによりも「この雑誌を面白くしよう」という編集者の熱意が伝わってきたのが良かった。いままで週刊誌と言えばアエラ一辺倒だったのだが(マンガはたくさん読んでいるが)、これからはちょくちょく週刊現代もチェックしてみようかなと思う。そういえば『働きマン』は週刊現代をモチーフにしたんだっけ。どうだったかな。

 いきなり話は大きくなってしまうが、僕は危機とはそれほど悪くないんじゃないかと常々考えている。以前「貧しい社会から生み出される文化は面白くなる」という宮台真司の説を引用したことがあったが、やはり一般的に言って豊かで何不自由ない世界にいると人間とはモノを考えなくなると思う。これまで政治家はもとよりそれを支持もしくは黙認してきた有権者も含めてみながモノをしっかり考えてこなかったのだろう。でも今のように百年に一度の(といわれる)不況になったり政治が末期症状を起こしている時代になったりすると、僕も含めて多くの人が危機感を持つようになったと感じる。豊かな社会の中で(豊かの定義は様々であるが)家畜のような生活を送るよりかは、崩壊しかかった社会で本気で生きようと努力する方が人間らしいのじゃないだろうかと僕は思うが、みなさんはどうでしょう。
 やれそんな抽象的で大袈裟な話をするつもりではなく、僕が週刊現代を拾って考えたのは今の出版不況のことだ。単純に消費者の視点から見ると、出版不況でつまらない雑誌が廃刊になり面白い雑誌だけが生き残る時代になったほうが、「ただ商品の紹介をするだけの雑誌でも作れば売れる」時代よりかはよっぽども健全ではないかと思うのだ。雑誌に限らず、80・90年代の日本映画界の衰退とハリウッド映画絶対的優位の状況が徐々に覆り、日本映画が再び息を吹き返すのを見るのは邦画ファンの僕としては非常に嬉しい。
 しかしそういう弱肉強食論を振り回すようになると言っていることが小泉くんと同じになってしまうから、そんな単純な話じゃないのかなとも思う。出版不況がさらに進み面白いが廃刊を余儀なくされる雑誌が出てきてしまうと、それはそれで文化は貧しくなるのだろう。そもそもパトロンがいなければモーツアルトやらなんやらも生活が厳しかったわけで、芸術とか文化とかいわば社会にとっては「必要不可欠でない」モノたちには市場原理を持ち込みすぎると痛い目にあうのである。パトロンがいない時代にはなおさら。

 久しぶりに文章を書いたためか、非常に論点が曖昧な文章になってしまったが、僕はまあ日本に帰って元気にやっていますというだけのことを言いたかった。ちなみに近々公開されるであろうリュック・ベッソンの『96時間』という映画は原題を“Taken”といって、僕はシンガポールで見たのだけどそれはそれは面白かった。ヨーロッパに友だちと旅行に行った娘がパリで女の子のバックパッカーを拉致してはヤク漬けにして売春婦にする団体につかまってしまったのを、お父さんが助けに行くというストーリーなのだが、「これを見ずに親子愛を語ることなかれ」と僕は言いたい。娘を助けるためなら何十人ものギャングスターを無慈悲に拷問・殺戮するのをなんとも思わない、そういう偽善的でない姿勢が「愛」という陳腐なものに描かれてしまいがちな題材に強烈なリアリティを与えている。この映画の親子愛に比べればうちの親の愛情なんて陳腐なものである。
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2009年03月29日

走ると体に良くない

 やれ、みなさん、3月ももう終わりですよ。3月が終わるということがどういう意味か知っていますか。それは4月に入るということです。4月に入るということは日本式には新年度を迎えるということでありまして、思えば3年前の僕は文字通り期待に胸を膨らまして日吉に引っ越してきたわけです。ずいぶん遠くまで来たものだなあ、なんて感傷に浸っている暇はない。この3年間の是非を問うている場合ではない。来週はフランス語の宿題とテスト、グループ・プレゼンテーションが大挙して押し寄せてくるのであって、加えて日本に帰る日まであと一か月強しかない。決して君は3年間の余韻に浸っている暇はないのだと誰か喝を入れてくれ。喝を。
 先日、フランス語の授業に遅刻した。運の悪いことにその日から「授業に15分以上遅れたものは、みんなの前で歌を歌わなければならない」という非情なる見せしめが施行されることになっており、「さすが公開処刑の国フランス!」と感心していたら、僕自身が遅刻することになった。笑っている場合ではない。僕もバカではないので、携帯電話の時計で12時13分に到着し、どうだ15分にはなってないだろうと余裕の表情で教師に「ボンジュ〜ル」などとかましながら教室に入ったら、パンジャンヌ曰く「私の時計はもう12時20分だ」とかぬかす。いいや違うね、君の時計と教室の時計が進んでいるだけだ、僕の時計こそが真実だと主張すると、自由と博愛の国だけあり民主主義的に採決されることになった。「誰か12時15分以前を示す時計を持っている人いますか?」と問いかけると、「ノー!」と申し合わせたようにすべての生徒が答える。くそう、シンガポール人のくせに意外に空気読みやがるな。俺に歌を歌わせて授業の余興にしようって魂胆だな。と気付いたのもむなしく、あえなく僕の主張は却下された。
 ああ、いいさ。そっちがその気ならこっちにも考えがある。こちとてだてに空気を世界一大事にする日本人を21年間やってはおらん。歌えと言われたからには堂々と歌ってやろうじゃないか、そして授業の空気をぞんぶんに暖めてやろうではないか。もはや僕は高校生と時のようなシャイ・ボーイではない。
 覚悟を固め、授業の最後、クラス一下手な発音でフランス語の曲を一曲歌い終えると、大きな喝さいを浴びた。一度も言葉を交わしたことのない女の子にも「グッド・ジョブ!」とねぎらいの言葉をかけてもらったりと、僕のクラス内好感度は大いに上がった(と思う)。人生何が好機で何が好機じゃないかっていうのは一見わからないなと心の底から思った。この前最近何かと話題の森見登美彦の「四畳半神話体系」を読んだのだけれど、占いばあさんが述べてることは真理だなとつくづく噛みしめた。ピンチをチャンスに変えるのは己の心持次第である、と心に刻む。

 話は変わり先週末、僕を含む慶応からの留学生3人が集い、現地の女の子2人も交えてご飯を食べに行った。僕はこちらでほとんど1日3食自炊生活をしているので(一学期に言っていたことと全く違うな)、僕にとっては久しぶりの外食だった。僕らはスチームボートという日本でいうしゃぶしゃぶみたいな鍋を食べ、その後ちょっと気取った店で水タバコをぷかぷか吸った。もしかしたらご存じかも知れないが以前の僕は強固な嫌煙主義者であったのだが、時の流れとはかくも不思議なもので、近頃はわりと平気になった。なぜならシンガポールは室内全面禁煙という過激な法律がある上に一箱7・800円するので、ほとんどだれもタバコを吸う人がいない。だから受動喫煙の危険性がなくてタバコに対するネガティブなイメージがだいぶなくなったわけだ。匂いが付いて困るような服装もしてないしね。おそらく日本に帰ったらまた嫌いになるかもしれないが、今現在は時たまもらいタバコをしたりする身である。ちなみに水タバコはニコチンとかがきつくないので、ほぼ遊びみたいなもの。シンガポールに来たらぜひ試してみると面白いですよ。
 と言った感じの夜を過ごしたのだけれど、翌日から全身に発疹が現れる異常事態が発せした。同居人の方によるとローカルのスチームボートを食べておなかを壊す人が結構いるとのことなので、これはおそらく東南アジアのおそろしさを今もって知ることになったのかと思った。例えばタイで生水を飲んでおなかを壊したとかよく聞く話だけれど、そんなのは所詮体が弱いシティ・ボーイの戯言であり、幼い時分寒風吹きまわる荒野を半そで・短パンで駆け回りここ5年間風邪をひいたことのない僕にとっては露ほども関係のないことだと大いに高をくくっていた。「もしやそんな慢心が報いを受けたのかも知れん。これこそが東南アジアのアビスだったのか」と戦々恐々とする僕を差し置いて、それ以後も発疹は順調にテリトリーを拡大し、僕の精神状態にまで大いなる悪影響を及ぼすにいたった。
 これはまずいと思い、先日皮膚科を訪ねた。日本病院の背の高く聡明そうな美人の先生は僕の体に出ているおぞましく赤いぶつぶつたちを丹念に眺めて上で、最近急に筋トレなどを始めたかと物静かに尋ねた。
「はあ、筋トレはやってますけど、かれこれ3カ月ぐらいはやっているので、急というわけでもないですけど。運動は他にもジョギングと水泳を」
「これはアレルギーではなさそうなんですね。急に体を鍛え出したりするとこういうことになるケースがあるんですが、けっこう筋トレしてるんですか?」
「いや、筋トレはあんまりしてないですね。むしろジョギングの方が多いです」
「なるほど」
「最近は距離が延びてきたんで、15キロ前後走ります」
「そんなに(笑)」
 ということで、あえなく運動を禁止され、抗生物質と副腎皮質ホルモン(ステロイド)を処方された。なんたって驚いたのは、運動することで病気になることがあるという事実である。都会に住む僕らは運動することは健康に良いと絶対的に信じている節があるけれど、時には運動することで体を悪くすることもあるのである。原因がわかった嬉しさよりも、その意外な真実に僕はあっけにとられた。過ぎたるは及ばざるがごとし。運動は皆さんほどほどにしましょう。
 それにしても運動を禁止されると、本当にやることがない。汗もあまり掻かない方が良いので、日中歩きまわることさえ控えなくてはならん。プールも泳げないし、日光浴もできん。しょうがないのでここ数日は本ばかり読んで口癖のように「走りたいなあ」と呟いているのだが、事実走らないとストレスが日を越えて蓄積されていくような気持になる。走らないと酒は飲んではいけないという自分ルールもあるので、大好きなタイガービールも飲めないし、これはちょっとしんどいですよ。ほんとに。

 風の噂によると、卒業式があったらしいです。先輩方、遅ればせながら卒業おめでとうございます。4月から働くというのは僕の想像力を超えた問題なので、うまくコメントできません。ただ願わくば、皆さんの就職先が愉快な職場であるように!
Posted at 17:49 | この記事のURL | コメント(0) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月23日

中間テスト

 前回に少し書いたように先々週末には社会学の宿題が出た。それは以下のような問題だ。
「人種と民族関係に関するエコロジカル・セオリーが機能主義(ファンクショナリスト・セオリー)のパラダイムにいかにあてはまるのか論じなさい。また人種と民族関係に関するエコロジカル・セオリーと機能主義をコンフリクト・セオリー、フェミニズムまたはシンボリック・インテラクション・セオリーの観点から批判し評価しなさい」
 僕はこれでもその社会学の授業が好きで、僕にしては極めて珍しくちゃんとほとんどの講義を出ていた。加えてこの前の僕のプレゼン担当はまさに人種と民族に関するトピックで、確かにこのプレゼンは史上稀にみる酷いプレゼンではあったものの、自分なりに教科書もきっちり読み込んでいた個所に当たる。それにしたってねえ、こんな問題わかるわけないじゃないですか。いろいろセオリーの名前が出てきているが、日本語に訳してみれば「ああなんだ、構造主義のことね!」みたいな発見があるのかと思いきや、上を見ればわかるように機能主義しか訳語が見つからないという事態。ちなみにシンボリック・インテラクション・セオリーを「困った時のウィキペディア!」ということで調べてみたら、「シンボリック相互作用説」と出てきた。なんやねん、シンボリック相互作用説って!となぜか関西弁で思わず突っ込んでみた。ついでにシンボリックも訳そうよ。
 僕は日本の社会学専攻の学生のレベルを知らないので恐縮なのだが、彼らにしてみれば「ああエコロジカル・セオリーね。基礎中の基礎じゃないの」みたいな感じになるのだろうか。というのは僕は社会学学科の開くもっとも基礎に当たる授業を取っているので、これは1年生が取る授業なのだ。ディスカッション・グループでも1年生しかいなくて、僕は「経済学専攻なので、社会学は勉強するの初めてなんで。はい、理解度低くてすみません」みたいにお茶を濁しているが、それでもなお他の人々がするディスカッションの内容が全然わからないことが多くある。ちなみにこっちの1年生は女の子が普通18・19歳、男は20・21歳になる。なぜなら徴兵があるから、男は同じ学年でも2個上になるんだね。つまり僕と同い年なのだけど、仮にも大学に2年間長くいるにしては全然アカデミックな発言ができない。自分の無学を恥じる。
 僕は自慢じゃないが成績にはあまりこだわらない人間なので、正直単位が来ればそれで良い。レポートも素晴らしいのが書けるはずがないので、平均か平均ちょっと下がもらえればそれで構わん。しかしこの問題で悩んだのは、適当にすら書けないの言うことである。こういうとき日本語だったら、まるでこのブログの内容のように、適当にだらだらとお茶を濁すことは得意なのだが英語だとそうもいかず、ここでまた自分の英語能力のなさを恥じるわけである。なんだか恥じてばっかりだな。
 分量はマックス1200単語で、こっちのレポートの中ではかなり楽な分量である。僕はまだマックス2500単語ぐらいしかやったことがなく、たまに本格的に外国に留学している人によると3000単語ぐらいざらだということだ。1000やら2000やらなんて宿題に入んないよ、と笑っておっしゃるが、そのレベルで四苦八苦している僕は非常に恐縮して聞いている。なんだが自分以外の人はみんな頑張っているような気がして来て、自分が情けなくなる。真面目な留学生の人たちは本当によく勉強している。

 こっちでレポートが課されると、毎回Plagiarism(剽窃)の説明がある。「海外の大学はPlagiarismにうるさいよ!」とは日本でもよく聞く噂だけれど、まあ確かにうるさい。それでPlagiarismの定義というのが「人の意見をまるで自分の意見のように書くこと」だと言われる。僕はいつもこの説明を聞いてドキッとする。なぜかって、考えてみれば僕個人の意見なんて頭に一つだって入っているだろうか。すべて人の意見をそのまま、または上辺だけ変えたり、ミックスしたりで、それをまるで自分の意見のように振る舞っているだけである。言ってみれば僕の存在そのものがPlagiarismなのではないか。そんなことを考えてしまう。

 まだ雨季は終わらぬ。引きずられて心の雨期になってしまうのを何とか食い止めている日々。
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