2007年04月26日

SFショートショート連載A

「逆行薬」

博士はついに長年の研究の成果として、逆行薬を完成させた。
彼の理論が正しければ、この薬を服用した人間は、時間を逆行することができる。つまり、人々とは時間の流れが逆さまになり、過去に向かって足を一歩踏み出せるというわけだ。そして彼の理論は今まで常に正しかった。
 感慨深げにその薬を眺め、一粒を手に取ってみる。右のポケットに逆行を解除するための解毒剤・・・逆行薬を「毒」と言うべきかどうかは決めかねていたが・・・が入っていることを再度確認し、ポイと口に入れてゴクリと飲み込んだ。しばらくはなんの変化もなかった。
 5分ほど経った時、窓外の大通りからパトカーや、救急車のサイレンが近づいてきた。窓から大通りを眺めおろしてみると、マンションの玄関口には野次馬が群がっていた。人々が騒然としている様子が、6階の高さからでもすぐに分かった。パトカーや救急車も次々とマンションの下に集まってきている。
「なにかあったんだろうか。しかし、こんな科学にとっての記念碑的瞬間に、実に似つかわしくない状況だ」と、思ったその時、変化があった。
 まず気がついたのはサイレンの音だった。けたたましく鳴っていたサイレンが緩慢な低い音に突然変調したのだ。おや、と思った博士は、窓外の人々の動きに注目した。きたぞ、きたぞ! 徐々にだが野次馬の動きがゆっくりになってきている。通りを走る車も、皆いっせいに速度を落としはじめた。博士は、興奮に多少目眩を感じながらもじっと窓外の様子を眺めていた。世界はコールタールの中に沈んでしまったかのようにゆっくりと動き、全ての音が間延びして、低い空調の唸りのようだった。そして、急に完全な静寂が訪れ、全てが止まった。博士は、あまりの無音状態に平衡感覚を失い、大きくぐらりと傾くと、どさりと尻餅をついた。

 そして逆行がはじまった。

 もう一度窓外を眺める。ゆっくりとだが、パトカーや救急車がバックしながらマンションを遠ざかっていくのが見えた。野次馬も、一人、また一人と後ろ向きに駆けながらマンションを遠ざかっていく。部屋の時計を眺めると秒針は逆回転していた。全ての物体の過去が、博士にとっての未来となり、彼らの未来は博士にとっての過去になっていく。
「成功だ! もちろん成功だとも!」と、博士は自分の才能に喝采した。

 部屋を飛び出し、マンションの玄関口まで階段を駆け下りた。マンションの1階にあるロビーに着いた時、耳をつんざく女の悲鳴が聞こえた。
「!〜ゃき」
 だが勿論、逆行体となった博士には珍妙な動物の鳴き声のようにしか聞こえなかった。なんだろう、と思いながらロビーを通り抜け大通りに出た博士の目に飛び込んできた光景は異常なものだった。
 一人の女が、口元を抑え今にも叫びだしそうな顔をしている・・・が、徐々にその表情は穏やかになっていくようだ。「さっき叫んでいたのは彼女だろう・・・いや、彼女はこれから叫ぶんだな」と博士は訂正した。
そして、更に博士の目を引いたのは、4〜5人の男の塊だった。全ての動きがまさにビデオの巻き戻し映像のようだった。皆必死の表情で誰かを取り押さえている様子なのだが、一人、また一人と重力に逆らって飛び上がっては、後ろ向きで懸命に走り去っていく。そして、その中心から一人の青年が現れた。ゆっくりと挙がってくる両手には悪意に満ち、黒光りしている小さな拳銃が握られていた。博士にはなにが起こっているのかさっぱり分からなかった。この見たこともない青年の顔に張付いているのは紛れもなく復讐心と殺意だ。しかも、それらが博士に向けられていることは間違いない。何かよからぬことが進行、いや、逆行? している。だが、神に誓ってこんな青年には会ったこともない!
 青年の持った拳銃の銃口に煙が吸い込まれていく。博士はその様子に魅せられ、一瞬、自分もその死の口に吸い込まれているような錯覚に陥った。そのうち、パッと空中から火花が現れ、これもまた銃口へと吸い寄せられていく。薬の効果が上がってきたのか、逆行速度は少しづつ現実の速度に近づきつつある。
 博士は必死に考えた。青年はこれから拳銃を撃つわけじゃない、既に撃っているのだ。今、私は彼が発砲する以前に向かって前進しているわけであって、つまり、青年が撃った弾丸は既に何処かに撃ち出されていて、これからあの銃口に戻っていくはずだ。そうだ、弾、弾、弾。弾は何処だ!
 博士は、あたりを見回した。「あれか!」博士の丁度真後ろにある壁に小さな穴が開いていた。つまり、弾はそれて、後ろの壁にめり込んだというわけだ。だが、次の瞬間、その壁の穴から物凄い勢いで鉛弾が飛び出してきたかと思うと、「あっ」という間もなく博士の心臓をぶち抜き、青年の構えていた拳銃の銃口にすっぽりと収まった。
そして、遅ればせながら銃声。「ンパ!」

今や逆行速度は正常な秒刻みになっていた。
「!えまじん死」と青年が叫ぶ声が聞こえ、博士はその場にどさりと倒れた。
「!れがやし出い思、かたっがやしを何に俺が前お」大通りに響く青年の叫び声を聞きながら、博士の意識は遠のいていった。

博士は、一度死んだ。だが、時間の逆行がそれを許さなかった。何があろうとこの世の原因と結果の因果率は崩れない。「死」の原因が過去である以上、結果である「死」は、博士をあの世へと連れていくことが出来なかった。博士の肉体は死と生の狭間でせめぎあい、博士は生きた屍となった。博士は、不思議なことに一瞬でそのことを悟った。
むくりと立ち上がりポケットの解毒剤をまさぐる。いや、駄目だ。今、逆行を解けば博士の「死」は決定された未来になってしまう。博士の未来は完全に奪われた。

博士は青年への復讐を心に誓った。今や後ろ向きで走り去っていく青年を追うため、博士は過去に向かって足を一歩踏み出した。