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| プロローグ |
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ボサボサに乱れた髪。薄汚れた素足。ゲッソリと窶れた顔。首には引っ掻き傷。
そして、うつろな瞳……。
絶望の淵に立たされた優奈に射した一筋の光が、心に温かく染み渡る。緊張から解放された瞬間、感情が溢れたわけではないのに、一滴の涙がこぼれた。
生暖かいその滴は大地に落ち、じわりと広がり蒸発する。
突風が吹き荒れると砂埃が舞い、目の前の景色が完全に閉ざされた……。
予測不能な、いや、到底理解できないこの状況に松浦優奈は絶句した。
突如現れたいくつもの影。幻覚ではない。地面に映し出された影はこちらへやってくる。五感の研ぎ澄まされた優奈は、微かに血の臭いを感じた。
「……どうなってんだ」
影の人物が怯えたような声を発した。まるで、化け物でも見ているかのように。
優奈も同じだった。あまりのことに声が出ない。指先が震え、呼吸が乱れる。ただそれぞれの顔を見ることしか……。
全身からスッと力が抜け、優奈は立っていられなくなり崩れ落ちた。
誰も駆け寄ってはこない。心配する声もない。優奈は、顔を上げられなかった。
一体どうなっているのか。
優奈は一から振り返る。
そう、始まりからすでにおかしかった。
あの夜は、凍えそうなほど冷たい風が吹いていた……。
2006年、12月6日。水曜日。
日付や曜日はもちろん、8人が集まった時刻、それにあの日の天気まで鮮明に憶えている。なのに、みんなと別れてからの記憶がない。まるで、時計の針が12月6日、午後10時でストップしてしまったかのようだ……。
テニスサークルの2年生だけで飲もうと言いだしたのは、いつもどおり城島豊だった。彼は大勢で飲むのが好きで、週に一度はサークルのメンバーに声をかけている。少し風邪気味だった優奈も、豊の強い押しに負け、飲み会に参加することに決めたのだった。
いつもの居酒屋に7時。そういう約束だったが、優奈はバイトの都合で30分遅れて店に着いた。
平日とはいえ店内は賑わっている。全国に展開している有名なチェーン店で、お酒や料理が他店よりも安いのを売りにしている。そのため、客層は大学生中心、いっても若手のサラリーマンばかりである。
7人がいる座敷に優奈が顔を見せたと同時に、豊から大声が上がる。
「はい、皆さん! 優奈ちゃんが到着しましたよ!」
優奈は全員から注目を浴び、大きな拍手で迎えられた。優奈は苦笑を浮かべ、
「いつもいつも大げさだって」
と言いながら、大学で一番仲の良い加納千佳の隣りに座った。
「バイト?」
千佳にそう聞かれ、優奈は顔をしかめる。
「時間過ぎてんのに帰してくれないんだもん。こっちは風邪気味だっていうのに」
「まだ風邪治らないの? 長くない?」
「薬は飲んでんだけどね。なかなかよくならないよ」
一週間前から咳が止まらない。今日は少し熱っぽい。これくらいならと放っておいたのだが、さすがに病院に行こうかと考えていた。だが、そんな時間はない。毎日授業で忙しいし、地元の岐阜を離れ東京に出てきているので、生活費を稼ぐためにバイトだってしなければならない。メンバーとのつき合いも大切だ。だから身体を休める暇がないのだ。
「それより千佳。小野君の隣りに行かなくていいわけ?」
そう言うと、千佳は頬を真っ赤にし、
「やだやだ何言ってんの」
と照れ隠しする。
「クリスマス誘った?」
そう言いながら二人とも一番奥に座る小野照之を一瞥する。
「誘って……ないけど」
「ダメじゃん! もっと積極的にいかないとさ」
千佳は指をモジモジさせながら、
「分かってるんだけど、なかなか言いだせなくて」
と弱気に答える。
「小野くんモテるんだから、早くしないと誰かに取られちゃうよ」
「わかってるって」
そうは言うが動きださない千佳の肩を優奈は押し出す。
「ほらほら! 隣り行って!」
「う、うん」
千佳は恥ずかしそうに小野の隣りに座り、遠慮がちに話しかける。その光景を見て、優奈は微笑む。
千佳は大学に入ってからずっと小野のことが好きなのだが、いまだ告白には至っていない。
髪には金のメッシュ。耳にはいくつものピアス。そして濃い化粧。見た目は派手で遊んでいそうな千佳だが、実はかなり奥手なのだ。
小野くんはテニスをやっている時が一番格好いい。
思いやりがあるし、正義感も強い。そんな彼が大好き。
千佳から毎日毎日聞かされる台詞だ。
小野がいないところでは自慢話ばかりするくせに、本人がいると縮こまってしまう。それが千佳のかわいい部分でもある。二人がつき合うことになれば最高なのだが、この調子だとかなり先のことになりそうだ……。
テーブルに置いてあるおしぼりで手を拭いていると、向かいに座っている山岡友一がメニューを差し出してくれた。
「何飲む?」
優奈は適当にメニューを見て、
「ちょっと風邪っぽいから、ウーロン茶にする」
と答える。友一は、
「OK」
と返し、店員に注文してくれた。
「ありがとう」
礼を言うと友一は笑みを浮かべて軽く手を上げる。
「それより、風邪大丈夫? 確かにちょっと顔色悪いけど」
「ほんの少し怠いけど、全然平気」
「そう。ならよかった。でもあまり無理するなよ。テニスの練習は控えたほうがいいよ」
「うん。ありがと」
そこで会話がとぎれると、
「俺、トイレ行ってくるわ」
と友一は立ち上がった。
優奈は彼の後ろ姿を見ながら、友一は大人だなと思う。落ち着いているし、気遣いが上手だし、誰にでも優しいし。さわやかなのも好感を抱く理由の一つだ。背が高くて、髪はサラサラで、テニスが一番うまくて、女性に好かれそうなアイドル系の顔。父親が医者だと知って、妙に納得した時のことを今でも憶えている。
容姿、ステータスともに言うことのない彼に、いまだに彼女がいないのがおかしいくらいだ。サークルの後輩数人から告白されているらしいが、全部断っているそうだ。きっと、好きな人がいるに違いない。それか、相当な面食いか。そうだとしたら、査定は少し落ちるが……。
「みなさん飲んでますか!」
ずっと立ちっぱなしの豊がビールの入ったジョッキを天井にかかげ、大声を上げた。
いつの間に脱いだのか、上半身裸になっている。それを見て大笑いする千佳や小野を横目に、優奈は呆れてしまった。仲間だと思われるのが恥ずかしい。ただただ溜息しか出てこなかった。友一とは大違いだ。この男がテニスサークルにいること自体が疑問だ。単に騒がしいばかりの猿男ではないか。恐らく、ただモテたいがために入ったのだろう。
優奈以上に恥ずかしがっているのは、豊のすぐ傍に座っているメガネ少女、野々村美紀だ。彼女の場合、優奈とは違って、豊が上半身裸でいるのが恥ずかしいらしい。顔を赤らめ、俯いてしまっている。その反応を面白がって、豊はしつこく迫っていく。美紀は、
「やめてよ」
と言って手で顔を覆い隠す。美紀が嫌がれば嫌がるほど豊は興奮する。皆が笑っているから余計調子に乗るのだ。エスカレートする冗談に、注意を促したのは男性店員だった。
「すみません。他のお客様がいらっしゃいますので」
豊は気まずそうに服を着る。優奈は、
「バカ」
と呟いた。美紀は心底ホッとしているようだ。今まで男性とつき合ったことのないであろう彼女にとっては、やはり過激すぎたのだ。
それにしても美紀の存在も不思議である。大人しくて運動神経の鈍い彼女がどうしてテニスを選んだのか。経験者ならともかく、テニスをやるのは初めてだったそうだ。もう少し自分に合ったサークルがあったと思うのだが……。
「おいおい!」
美紀に気をとられていた優奈は、牧田竜彦の強い口調に反応した。一瞬にして、場が静まり返る。彼は、男性店員を鋭く睨みつけている。注意されたのが面白くなかったのだろう。
竜彦は立ち上がり、店員に歩み寄る。そして、ちんぴら口調で店員に文句を言い始めた。
「こっちは楽しんでるんだからいいだろうが!」
竜彦の剣幕に、店員は気圧されてしまったようだ。困り果てた様子で、
「すみません」
と頭を下げる。
「マジで調子のってんじゃねえぞコラ」
よほど不愉快だったのか、竜彦は本気で怒っている。
険悪な空気に店内は凍りついた。さすがの優奈も、怖くて止めに入ることができなかった。
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| Posted at 13:35
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